『ファーブル昆虫記』が、ものすごくおもしろいものだったこと。
すみません。
昆虫記の話をするのに、軟体動物であるカタツムリの写真など載せて・・・。
息子がまだ小学生の頃、『ファーブル昆虫記』の全集が出版された。
確かまだ全巻出ておらず、一巻ずつ買ってあげよう、と思って一冊目を買った。
そしたら息子は、それが面白いらしく、時には音読して喜んで読んでいた。
そもそも本が好きな子なので、ハマったのだろう。
歴史も好きで、当時出版された子供用の百科事典の中でも歴史のところを読み漁り、いったいいつこの子こんな知識を仕入れたのだろう?というようなことを言い出した。大学受験では日本史も選択していた私も知らなかった。
父親の方が日本史は強いので、男二人であれやこれやと日本史について語っていた。
専門的に何かを習得したということもなかったし、それらの本に出会ったのは(出版されたのは。)、高学年になってからだったので、もう少し早めだと良かったのかもしれない。
でも、小学生のうちに、これは、これだけは、というものをオタクみたいにそれは俺が知ってる・・・、みたいなものをもたせてあげればよかったな、と思っている。
そののち、どうしたって進学のための勉強になるのだから、それまでに勉強のおもしろさを、何か一つの分野について、その子なりの知識を持っておくと自信にもなるし、勉強が面白いものになって行くと思う。
こうして書いているだけでも、何にもしてやっていなかったような少年時代にも、あれこれ心を砕いていたのを思い出す。
その後の人生が楽しいものであるようにと。
それにしても、嬉しそうに『ファーブル昆虫記』を読み始めた頃の、あの集中していた顔が忘れられない。本当に楽しそうだった。
『ファーブル昆虫記』は、昆虫記だけれど、本当に文学作品だった。その表現の美しさに魅了されていたのを知っている。私も読んでみて、こんなに素晴らしい作品だったのか!?と驚いた。
私は、雑草について書いている本などを読んでも、人格があるかのように、意志があるかのように、自然の摂理に従って、生きるということを全うしている様子を読んでは、健気さを感じたり、たくましさやある種の図太さや、時には残酷なまでの生存戦略を知って、こわーい!と思わされる。
そんな自然の中のお話を、文学作品にまで昇華させるなんて、すごい人だなあ、と感心した。
教育の仕方っていろいろある。
学校の勉強が中心であることは否めない。
それでも、ときに、もっともっと教養的な、楽しい勉強があるのになあ・・・、と思ってしまうことがある。
小さいうちの時間のある時代に、あれこれ楽しんで勉強させてあげるのはとんでもなくいいことだと思う。