今更ですが、心構えを・・・。いや、得策を。
今更、この時期になって言うのもなんですが・・・。
お子様の成績が上がってほしい・・・、というのはどの親御さんも共通の願いであると思われます。
ここでは、芸術方面であるとか、アスリートを目指す、あるいは、もっと違う価値観をおもちの場合はちょっと置いておいて、まずは、もっとも一般的なご家庭のお話としてです。
昔、私が勤めた初任の学校では、教職員も含めて、そのあたりのことの議論がよくなされていました。
まずは、両親が仲良くすること。
これは、むしろ、意志疎通ができていて、子育てに対しての、共通理解がある、ということを指している、といった方が具体的かつ現実的であると思います。
よくあるのは、親御さんのどちらかが、一生懸命になり過ぎて、いわゆるお子さんに厳しく言ってしまう、という場合。
それも、具体的ではなくて、「勉強しなさい。」とだけ言うような場合。
そんな時、ご本人は、どうしていいのかわからず、漠然とした、「勉強」に振り回されることになります。
たとえば、社会の勉強だったら、○○してごらん・・・、とか、教科書を〇回読んで、それからマーカー引いて、ワークに取り組む、だとか、具体的に話すのならいいのですが、ご本人に、勉強、とだけ言ってしまう。
そして、ちっとも勉強しない・・・、と言う。
親ができることというのは、ご飯を用意して、できれば愛情を示すために、お夜食のおやつなどがあれば、嬉しいでしょう。
愛されている実感は、何よりご本人をやる気にさせます。
それから、とりあえず、親御さんがご自身のするべきことに集中すること。
とつおいつ(取りつ置きつの転。あれこれ思案するさまを言う。)、お子様のことばかりを案じることがよいことのように思われそうですが、それは、結構お子様にとってはありがたくないことかもしれません。
親御さんが、ご自分の本分である、仕事や家事など、自分のするべきことに集中すること。
ご自分の手元がお留守になっていながら、お子様にだけやるべきことをやってください・・・、と言うのには無理があります。
かつて出会った、これは理想のご家庭だなあ(勉強するにあたっては。)と思わされたのは、ご両親が共働きで、それも同じ会社で正社員で、それぞれのお仕事を一生懸命やりながら、お父様も家事を分担されていました。
多忙な方面に進んだ生徒さんは、僕が家庭を持ってもいいのか?と思ってしまいます。父が家事に協力的でしたが、僕はそんなことできそうにないから・・・、と悩むほど、ご家庭での連携がうまく行っておられたようでした。
それに、本人が勉強したがっているから、協力はする、というスタンス。とても仲の良いご夫妻でした。
そしてときに、お子様それぞれと、それぞれがお食事に行ったりなど、お子様とデートされて、そして、お子様の方も、
こんなの食べて、大丈夫?と訊いたら、残業が多かったから大丈夫よ・・・、と言われた、などという、ちょっとお茶目な会話も聞こえてきたりしていました。
成績が上がったら、頑張ったね!とはおっしゃるけれど、本当にお任せ。下がっても、別に気にもされない。まあ、一時のことだろうというお子様への信頼もおありだったのでしょう。
そうそう、この、ご自分のお子様への信頼は大事です。
それに、上手なのです。このお母さま。
講師をやる気にさせるのが。
お任せしています・・・。信頼しています・・・。
そして、絶対にあれこれおっしゃらないので、本当にやりやすかったのです。
だから、ご本人も、ご自分のご機嫌を取るのが、本当に上手でした。
目の前の成績に一喜一憂しない、というのもいいかもしれません。
信頼されたら、だれだって、その信頼に応えようとするものですから。
私自身、仕事のある時期(非常勤講師として高校に勤めていた頃。)よりは、仕事のない休暇の方が精神的に大変でした。
どうしても子どもたちのことが気がかりになり、それに子どもたちの宿題を期限通りに提出させようとすると、それはそれは大変で、週単位で考えると、これは休んでいる暇ないな、と思ったことが思い出されます。
ある程度、親が協力することは必要であると思います。
自由研究や読書感想文では、それとなくテーマを決めたり、本を提案したりしていました。
でも、幾分過保護でもあり、結構甘い親だったなあ、と思います。
それでも、進路については、それぞれのもっているものを、最大限に生かしたい、という思いはありました。
自分がどちらかと言えば学術よりなので、むしろ芸術家肌の娘には、結構悩みました。
だから、お母さま方のご心配や、気掛かりなことが、本当によくわかります。
でも、結論的に言うと、子どもたちって、育つようにしか育たないところがあります。
その中で、いかにその子が生き生きと楽しく勉強できるようになるか?というところに、触媒のように私たちが存在しているように思います。
ご家庭の在り方に、口を出すつもりもありません。
でも、今一度、ご家庭で、しっかり考え方を、共通理解として、話し合われるとよいかもしれません。
たった一つの、上へ上へ偏差値を上げるだけではなくて、なぜ、そうするのか?なぜ勉強するべきなのか?
そこからお話をされ、なぜ塾に行かせてあげているのか?など考えていただけるといいな、と思います。
そして、どうしても考えてしまうのは、将来社会に出て、やはり通用するような人材となってほしいということです。
勉強だけなら、志望校に合格した、ということで喜んでいていいのだと思います。
でも、勉強はできる。
大学も結構難関である。
それに大学院も出ている。
それなのに・・・、とはかつて私が勤めた学校で戒められた言葉なのですが、まるで院卒の先輩方に耳が痛くなるような話として、そして、学歴に頼ることを戒めた(素晴らしい方々がいらっしゃいました。)言葉として、電話一つまともにとれない、コピーもできない、などという表現がありました。
正直、学部卒の私は、院卒の先輩の副担任として、相当に実務面で迷惑を掛けられた思い出があります。
どうして、生活していて、そこが抜けるかなあ・・・、というところ。
模試の監督を初めて任されたときに、生徒が受験教科が間違っていて、生徒が大騒ぎになる、という、初任の教師にはもう、大変な目に遭いました。それを言っても、あまりピンとこない様子。
それで、そうそう反省する様子もない。
いったいなんだろう・・・?と思いました。
それを教師ではない立場の先輩に話したら、
あなたが、それを確認したの?受け取ったときに、それを確認しないあなたにも責任がある。
そういうことが起こるような自分だと思えば、あなたは成長できる・・・。
不足でいっぱいだった私が、自分の周りで起きることを、自分の成長に役立てようと決意したのは、その方のおかげでした。
私は、勉強しかできない・・・、という、恐ろしい言葉から逃げるために、一生懸命家事をやったり、その他生活、ということで、頑張ってきたように思います。
勉強していると、気分、とか気持ちとかいうものからどうしても遠ざかってしまうこともあります。
そして、正直、学問を生活の場で試して、学んできたことを鍛えなおすところで、しあわせになってきたと思っています。