仕上げる喜びを重ねていくことの連続であること。ー井原西鶴『好色五人女』
昨夜は眠れなかった。
正直明日の朝、発表することについて準備ができていなくて、そのことが気になっていたのである。
昨日文献は読んでしまっていた。
しかし、そのことについてお話しすることを深めているわけでもないし、話したいことが、どこに一番あるのか?というところまで、まだ深められてはいなかった。
今朝、友人との電話でその話をすると、あら、あなたいいわねえ、そういう機会があって・・・、と言われたが、こちらは気もそぞろであった。
午前中、少し眠れた。
そして教室に来て、資料を仕上げた。
大学時代に勉強したことがあれこれ蘇る。
職場で大坂上町台地文学歴史散歩として、何度も歩いた場所が鮮やかに読みあがって来た。
ZOOMでの資料の共有の仕方がまだわかっていなかったので、それも調べて、リハーサルをした。
今の気分は、まるで、大学の研究発表の当日の朝のような気分である。
レジュメを仕上げて、納得いかない場合は、朝までかかって、締め切りの直前まで印刷をし、ドキドキしながら発表したものだった。
あの頃の勉強が、国語の教師になってから、とんでもなく役に立っていたことがわかる。
先輩の先生から、学校現場が忙しすぎて、最初、自分のもっているものを切り売りしていた感じ、なかった?と訊かれて、
そうですか?私は、どちらかというと、現場に出てからの勉強の方が勝っているような気がします。
と答えてしまった。
何も対抗していたわけなんかじゃない。
だいたい、そういう場面で対抗する気持ちなど、そして考えてしゃべるというような気の利いたことができるような人間ではおよそなかった。
まともに、正直すぎるほど正直に話してしまうのだ。
それは、もう、アホとしか言いようがないほど、相手に合わせて話す、とか、流れを感じてなどということもなく、正直にまともに本当のことを言ってしまった。
だって、学問と勉強を教えることとではかなり開きがあるのである。
学問は、自分対学問であればいいけれど、指導は、自分対人である。
その間に国語が介してくれる。
国語という教科を通して指導をしていた、ということである。
学校現場と違って、学習塾の楽しいところは、いろんな教科が指導できることである。
今日は、カンカンに高校数学を指導する。
その前は現代文、その前は大学受験英語。
だから、私は楽しいのである。
とはいえ、たまに、自分の専門にたいそう近い分野のお話をさせていただけると、私はとんでもなく嬉しいと共にに、ちょっとばかりプレッシャーを感じる。
そして、そういうプレッシャーに、専門教養の時代には、いつも晒されていたなあ、と思い出す。
眠たいのを我慢して京都まで電車に乗っていき、発表が終わった後の爽快感!
演奏も同じだった。
周りは余裕そうに見えて、自分だけがハラハラしているように思えた。
終わったら、その後の解放感ったらなかった。
そういうことを重ねていくのだろうな、と思う。
失敗するかもしれないことをやってみて、ときに失敗かもしれないけれど、何と評価されるかわからないものを仕上げて、ホッとして、そして、それが褒められればうれしいけれど、とりあえず仕上げるまでが大変で、そして、時にはぼろかす言われて(最近、この関西弁が気に入っております。)、めちゃくちゃ落ち込んで、また立ち上がって、また勉強して、その繰り返し。
でも、年を取ったからか、だんだん、段取りが掴めてきて、これくらいの時間があれば仕上がる、というものがわかってくるし、それに、ちょっとずつ進める、ということの大事さもわかる。
この10日間ほど、本当に少しずつ進めてきた。
井原西鶴の『好色五人女』の第一話から第五話まで少しずつ読んだ。
一日で一話を読んで、後は少しずつ進め、昨日、最後の二話を読んだ。
見えてこなかった。
何を話すか・・・。
でも、これは当日、わかってくることなのかもしれない。
出席されている方々のご様子から、何を話すべきか、わかってくるのかもしれない。
資料は作った。
ZOOMでの共有の仕方もわかった。
あとは、事柄ではなくて、どうにか気持ちを、雰囲気や感じをお伝えしたいと思っている。