俵万智さんの歌-待つということ
待つということが苦手だった幼いころ。
そして、待たざるを得なくて、待つということがことのほか得意になった小学生から中学生の頃。
待っていては間に合わなかった高校時代。
前へ前へと進まざるを得なった大学時代。
待つことがことのほか大切な教育の仕事に就いた教員時代。
そして子育て。
待つという言葉と共に生きてきたような気がする。
でも、初めて『サラダ記念日』を手にして、この歌を読んだとき、まだ経験が浅かったためか、この歌の意味があまりよくはわからなかった。というよりピン!と来なかった。
ー誰を待つ何を吾は待つという言葉すっくと自動詞になる
古文を本格的に解説するようになって、私はだんだんとこの、待つという意味がわかり出したような気がしている。
待つのは辛い?
待つのは楽しい?
待つ対象がある場合、それぞれにその意味合いは変わってくるだろう。
けれど、事理が至るのを待つ・・・、などと言うと、いきなり漢文帳になり、天が・・・、などと言うことにもなろうけれど、そしていきなり男性的な待つになりそうだけれど、それでも、いつ来るか、何が来るかわからないものを待つということもあるのだろうと思う。
もしかしたら、人生はその連続かもしれない。
でも、この、待つという感じを、耐えられるようになったり、また、その感覚を身に着けたとき、ある意味本当に大人になるのかもしれないな、とも思うのである。
公開:2022/04/14 最終更新:2022/04/14