受験から学べることはたくさんあります。自分の世界が狭くなるなんてことはない。
受験勉強から学べることは思っているよりもたくさんあると思います。
最初は嫌いかもしれないし、気乗りのしないものかもしれない。
それでも、自分のくせをよく見せてくれるのは、教科の勉強をしているときでもあります。
数学でケアレスミスが多い場合は、きっちり詰めることがまだ得意でないのかもしれません。
国語があまりできないのは、意外に、数学的に分析ができず、あれもこれもとたくさんの内容を入れようとするからかもしれません。要するに、ここまで、と区切れない自分がいるのかもしれません。
英語も、文法をしっかりできないのは、これほどシンプルな言語で、その法則性を使えないのなら、言われたとおりに素直にすることが苦手なのかもしれません。ある意味、英語の文法は、とても簡単です。決まりに従えば、さっさとできます。
社会は、世の中で起こっていることに関心が薄いのかもしれないし、中学生ならば、きっちり覚えることができていないのかもしれません。
理科はどうだろう・・・?自分のどういうところとの闘いになるのかな?
計算もあれば、知識として知らなければならに事もあって、いろんな自分を鍛えてくれます。
私は、かつてあまり意味が分からないものを覚えることが好きではありませんでした。
だから、社会では地理の、行ったこともない場所の地名を覚えるのが苦痛でした。
せいぜい大阪から京都か奈良に出掛けるくらい。あとは旅行でしか行かないので、羽二重餅など聞いても、イメージもできず、先日買ってきた羽二重餅を食べながら、「ああ、これか。かつて覚えさせられたのは。福井だとまで覚えていなかったなあ。」と思い出す始末。三重か愛知のような気がしていました。
ある予備校の現代文の先生もおっしゃっていて、私も頷けることがあるのですが、結構難関大に進学した学生は、そんなに勉強しなかった、というそうです。時間にしてみたら、結構勉強しているのにも関わらず・・・。それは聴いてみたら、やはり勉強時間自体は長いのだそうです。
でも、本人たちはそんなに勉強した覚えがない。
なぜなら、勉強が面白くなって、途中から中毒状態になるので、そうそう勉強した記憶がない。辛かったとも思えない。
だから、あんまり勉強していない、と話すのだそうです。
勉強って、本来そういうものだと思うのです。
数学がきっちり解けたときの嬉しさ。
国語の文章問題で、きちんと必要な要素を抜き出して、スッキリとまとめ上げられたときの喜び。
どれもこれも、楽しい過程のはずです。
合格したら終わり、にできるような、苦しいものであるはずがないのです。
そんな楽しさを、どうしたらお伝えできるかなあ・・・、と毎日模索しています。
一生お付き合いできるようなものにできたら、それこそ一生ものの財産になるのですから。