古典文学についてお話しさせていただいて、思い出したこと。
大学時代、結構研究発表させられることが多かったし、高校の教員を目指していた身としては、我と自ら、そういう場に自分を置こうとしていて、結構自分から大変な思いをしていたように思う。
部活も、大阪から京都に通っている割には大変な部活に入ってしまったし、勉強もしたくて、とりあえず、現場に出て困らないような人間になりたかったのだろうと思う。
近世初期日本文学から始まって、江戸後期の作品までたどり着き、卒論は、上田秋成の『雨月物語』だった。
西鶴とは違って、格調高く、あちこちに深い知識と教養が散りばめられていた。
しかし、どうも理屈的には合ってなくはないけれども、どこかで、心の中で、違うような気のする場面もあった。
その点、さっさと離れてしまった西鶴の方が、大学受験用の国語の問題で出てきても、やっぱりこの人、人間ってものをよく知っていたのだろうなあ・・・、と感心させられる、と思った。
秋成は間違ってはいない、が、しかし、どこか人間理解を学問に預けてしまって、どこか自分の目で実感したことから作品を描いていないような気がする。
ところが西鶴には、そんな論理を通そうとか、そんな気はさらさらないので、矛盾も何も一緒くたに描いているのに、どこか、なるほどなあ・・・、と感じさせられる。
矛盾を抱えていて、その矛盾に気づかないのが人間で、それでいいのだろうと思う。
どうしようもないから人間なのだし。
今朝、朝活上市さんで、西鶴の『好色五人女』について、少しお話しさせていただいた。
そのことをきっかけに、もう一度西鶴を読み直したし、そこから近世について考えさせられた。
ちょうど日本史も教えているので、その雰囲気までもがどこかリアルに感じさせられる。
自分が用意していた内容よりも、ご質問から引き出していただいたり、新たに資料を見つけてくださった先輩のおかげで、お話が広がっていったし、内容も濃いものになったような気がする。
準備をする人間は、つい、事柄に偏ってしまい、気分や感じを伝えることがおろそかになりがちである。
不安な中で、ふと思った。
出席していただいている方々にお任せしてみよう・・・。
そう思ったら、少し気が楽になり、思ったよりもたくさんお話していただくことができた。
とんでもなく面白いご意見もあり、私は、とっても楽しかった。
まるで、たくさんの人数で遊ぶ、俳諧の連歌のように、その場で何が起こるかわからないから面白い、と思わせていただいた。
思わぬ方向に広がって、自分の中にあるものをたくさん引き出していただいて、私にとっては、とんでもなく有意義な楽しい時間だった。