大学生の英語の添削-スピーチに備えて。
今度、また、英語のスピーチがあるのですが、その原稿の添削をお願いしてもいいでしょうか・・・?
丁寧な彼女のラインでのお願いが来た。
喜んでお引き受けする。
ただ、どんなものについての添削もそうであるが、その人なりの味わいを消さないように、表現を生かして、でも、こうした方が伝わりやすいかな?という程度にとどめたいと思うのであるが、それでもやはり、質問をされると、放っておけなくて、自分の好みの文章にしてしまっていないかな?と思いながらも、2回目の添削を完了した。
感謝されながらも、こうすれば、ああすれば、とはあまり言いたくない質なので、これで良かったのかな?と思っている。
彼女の良さを引き出す添削になっていればいいな、と思っている。
ただ、高校時代、英作文はかなり得意だった。
いや、真面目に英語をやって、超々得意科目とかいうのでは絶対になかった。
ただ、その文章を日本語レベルで、論理の筋を一本にし、それを平易な日本語に作り替えるのが少しばかり得意だったのではないか?と思っている。
気の利いた表現は使わず、できれば文法はおもいきり平易でミスをする可能性をできるだけ少なくした表現をしていた。
それだけは伝えられると思う。
でも、最近は仮定法なども楽しい。
古文の反実仮想をやるたびに、結局同じなのに、どうしてこうも味わいが変わるのか?と思う。
日本語と英語の論理構造が違う。
いや、日本語に論理構造と言っていいものがあるのかどうか・・・?
英語が本当に論理的にシンプルなものに思える。
こうすればこう、というのが法則的に決まっているから。
このあいまいな日本語。私は大好きだし、私たちの宝物のような日本語。
景色を見ては、思わず一首詠いたくなるような私たち日本人のDNA。
おそらくは三十一音にするとハマる何かがあるのだろう。
なんてことない歌(音楽の方の歌ですね!)の中に、我らの血に流れる、和歌を詠っていた時代から脈々と受け継がれているものを感じることがある。
それが証拠に、五・七・五・七・七、あるいは五・七・五のリズムに切り取った瞬間、我らの感性は香り立つ。
短詩型文学をもつただ一つの国である日本。
その言葉である日本語。
雨晴を車で走るとき、田園地帯を流れる川の橋を渡り、その皮の姿を見るとき、ああ、素敵な国なのだなあ・・・、と実感する。
都会で、街の在り方を見ていても、それは国民性を感じなくはない。
でも、自然の中にいるとき、四季がはっきりとした、あきつしま日本の美しさを実感する。
都会育ち、と言われながら、この、山ある富山、海ある富山、そしておいしいものに溢れている富山、それが文化の結晶として今なお残されているこの地の深さを思わずにはいられない。
それをこそ、若い世代に伝えて行きたい、と思うのである。
だからこそ、いつもはどの教科も教えていながら、国語は、渾身の力を込めて、思いっきり語ってしまうことがある。
最近、特に国語がみんなとんでもなく伸びている。
感じる心、考える頭になって来ているのだと信じている。