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好きではない『土佐日記』の解説をしていました。

生徒に言わせると、「古文オタク」の私です。
現代文を解説していると、めちゃくちゃ頭で考えて解説しているのを感じますが、古文を解説していると、いつの間にか乗り移ったように感情が入り、声色まで変わり、私自身が、全身で解説しているのを感じ始め、
ああ、だから「古文オタク」ということになるわけね!
と自覚し始めてもいるのですが、古文も大好きな私にも、この作品はちょっと解説したくないなあ・・・、と乗らない作品があります。

それは、『更級日記』と『土佐日記』です。
どうしても感情移入ができないのです。
たぶん、どこか本当でないところがあるのではないだろうか?
いえ、文学作品は虚構ですから、ある意味、いやそもそもウソだらけのはずです。
ただ、それは嘘を作った中には、人間心理と言い、出来事と言い、ウソではないなことがあるはずなのですが、正直、私にはそれが感じられないのです。
そもそも女性のフリして書いた仮名文字の文学であるので、明確に国司であることがわかっているのに、女性になりきってなどいないし、更科でも、なぜか私には心情的に、そんなもん?と思わせられます。
あまりに書きすぎて、困るのは『蜻蛉日記』。
正直、この女性、重たい。
自分であっても、相手する男性であっても、もういいわ・・・、と言いたくなります。

それに比べれば、とんでもない、「モラルとしてはどうなのか?と思わされる『とわずがたり』や『いざよい』などの方が、私には真実として感じられます。

高校生の指導に、あれこれ言っている暇も理由もないわけで、解説します。
古文単語の意味、古典文法について、ある程度の文学史、そして、その挙句の心情理解。
こんな軽くていいの?と思いながら、
これはどうして連体形になる?係りがないから、普通に終止形!
などと言ってる自分が、あああ、と思われることもあります。

何とかもっと深く味わえないだろうか?古典。
などと思いながら、それでも、ついつい登場人物に感情移入してしまいながら、ああ、私にも日本女性的な心情があるのだろうか?などと思います。
意外に軍着物などの、男性心理には、もしかしたらもっと感情移入しているかもしれません。

どこかで古文を読む時、そして解説するとき、私はどこかで、思い切りその登場人物の心情を辿り、どこかでときにある種のカタルシスを感じているような気がするのです。
日常生活の中では味わえない、また、仮に感じたとしても実行には決して移せないような、あるいは人に語ることのできないようなことを、古文の世界の人物たちは感じたり、表現したり、行動したり、私たちに代わって、あれこれしてくれているように思うのです。

いつしか、古典でものを読むことに全く抵抗がなくなってしまいました。
それはそれで自分の世界が広がっているわけで、嬉しいのですが、まだまだ会いに行くべき方々がたくさんいらっしゃいます。
ピアノで死ぬまでに弾きたい曲があるように、死ぬまでには出会っておかなければならない人たちに、順番に会いに行くように、読んでいきたいと思います。
そして、大学受験につながるものとしての側面は十分に理解しながらも、古典のおもしろさを伝え、苦ではない国語を伝えて味わってもらいたいと思っています。

公開:2023/01/30 最終更新:2023/01/30
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