高1模試対策国語ー現代文小説、幸田文「雛」を読んで思わされたこと
高1生は、11月の模試に向けて、学校で配られた過去問に取り組んでいる。
現代文の小説の問題として掲載されている幸田文の「雛」は、過去にも読んだことのあるものだったが、今回は、心に響いた。
姑と両親を呼んで、自宅で長女の初節句のお祝いをした次の日、父に呼び出された私は、父に、ひな祭りのもてなしについて、注意を受けた。
嫌な予感はしていたが、しっかりできた・・・、という自負のある私は、納得がいかない。
やり過ぎだと言うのである。
露伴と文のやり取りと思われる、なんとも言えない親子関係の中で、私は、このやり取りを納得できる。
言葉の、現代風に言えばチョイスのうまいお二人、というか、もう表現がうまく、さすが大文豪としか言えないのであるけれど、夫婦生活をしていくうえでの大事なことを父は娘に伝えている。
姑に謝りに行くよう、暗に諭される私は、その足で姑のところに行く。
お姑さんも、やり過ぎる質の嫁に対して、でき過ぎると寂しい、という風に心情面で伝える。
こころ許した私は、幼いころの父に対する思いを吐露する。
そこに現実的にお姑さんは、おもしろい話をして嫁を納得させる。
いいお姑さんである。
文さんの文章を読んでいると、ちょっとそこまでこだわらなくても・・・、とときにしんどくなる。
でも、この私の気持ち、というか性質はよくわかる。
完璧にしてしまうのだろう。
ただ、私の場合は、できる自分を誇示したくて、というより、お呼びするのにはきちんとしなければ・・・、という気持ちと、この度、また、一品でもお料理を覚えたい、というような気持ちでそうするとは思う。
失礼のないように。
でも、私もやってしまう質なので、わかる。
その昔、小さなホームパーティをした折、自分ではそのつもりはないのだけれど、お招きいただいたときより、どうも頑張っていたようで、来られたお家の奥様が不機嫌になられたことがあった。
家が後輩にあたるから、まだ慣れなかった私は、失礼のないようにと準備したのだった。
こういうところ嫌われちゃうかもしれないな、とも思う。
でも、求められた立場や役割によっては、嫌われてもやってしまわなくてはならないこともある。
ただ、私の場合、やりおおせたという自負などない。
動機は違うところにある。
それに、ただ一生懸命にやったその結果、やり過ぎていたときもあったのだろうと思う。
このバランス、難しいな。
でも、結果的には同じことになってる時もあったかな、と若いころを思い出す。
もう、今は年を重ねて、やり過ぎる、なんてことを誰かに何かを言われたり、嫌な思いをさせる立場になることは少なくなったと思われるけど。
その点、自分で仕事をしていると楽である。
などと、文学作品は、それが入試問題であろうと模試の過去問であろうと、あれこれ考えさせてくれる。
自分のことをいつまでも振り返ったり、反省できるのはありがたいなあ。
こんな偉大な父を持って、噛み砕いて教えて盛られるというようなこともなく、いつも???だったけど。(笑)