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『宇治拾遺物語』所収「絵仏師良秀」と「地獄変」ー高校国語中間考査対策で。

高校一年生の中間考査で、『宇治拾遺物語』所収の「絵仏師良秀」と芥川龍之介の「地獄変」を絡めて出題されるところがあり、私はかつて読んだはずの芥川の「地獄変」を読み直した。いやあ、忘れていた。
確か芥川は、中一のときに夢中になって、夏休みにハマって、新潮文庫にあるのものはほとんど読んだ覚えがある。
それぞれの学年でハマった作家は違ったけれど、たしかに中一の頃は芥川だった。
それなのに、数年前、「杜子春」の内容もほとんど覚えていなかったし、「地獄変」に至っては、芥川が取材したはずの『宇治拾遺』とこれほどに違いがあるのか・・・?と驚きを禁じ得なかった。

芥川は優しい人である。
と知っている人のように言うのは、かつて、ある会で、芥川の姪でもあり、長男の嫁でもある芥川瑠璃子著『影灯籠』を読んだことがあったからである。
人間的な?この人間的という言葉ほど、何を指すのか明確でない言葉もないだろうけれど、人としての責務に忠実な芥川が、ここまで見事に描き切っていたか?ということにどうもこうも驚いたのである。
おそらくは、「地獄変」は、中一以来読んでいなかったのだろう。
「絵物師良秀」は何度も読んでいた。
でも、『宇治拾遺』という作品を理解するうえでも、「地獄変」を読んでおくのは有効であると思う。
もともと残酷な、芸術家魂というものを描いていた「絵物師良秀」に対して、「地獄変」では、親としての人間性と、芸術家魂の併存する人間の不思議さを、そして追求せざるを得ないくせに自ら咎めずにはいられない芸術家としての思いを描き切っている。

かつて、大竹しのぶさんが、子育て時代だったろうか?
シャワーを浴びながら、自分が演じたい、という思いがプチプチと出てくるの・・・、みたいなことを語っていらした。
その後、女優として大きく開花された。
でも、子育てもなかなか一生懸命に頑張っておられたことは知っている。
女性の中にも併存する、本性。
そんな不思議さと、葛藤と、葛藤を越えた先にある芸術性。

自分にもあった。
家族は大事。子育ては楽しい。充実もしている。何より子どもたちは、目に入れても痛くないほどに可愛いし、愛している。
でも、ひとたび教壇に立ってしまった後の充実感。
それは併存する。
矛盾なく併存する。

そんなこんなをたとえにしながら、今日は国語を語った。
時折自分を事例として挙げて、生徒に私にとって大切なものは何だと思う?などと訊いてみたとき、帰ってくる答えに驚くことがある。意外に家庭寄りに思っていることが多くて、びっくりする。

今日の場合は、仕事、特に教育を大事にしている方面から語る必要があったので、話の方向性を若干修正した。
自分の人間としての愛情と、何か憑りつかれたような使命感や、芸術家としての魂。
そういう相矛盾したものを併存してもっているときの人間の悲劇。

国語は、同じ文章でも、読むたびに新しい。
こちらが変わっているからだ。

私は、私の教えていた時代に掲載されていた「鼻」が好きだった。
人の心を伝えるのに、私は今でも高一生になら、「鼻」が教えやすい。
高二になれば、夏目漱石の『こころ』が待っている。
今でも、学校の授業を思うと心ときめく。

精読するときのおもしろさ。
語り方で、如何様にも変わる生徒の反応。
そして、幾分不謹慎ではあるけれど、自分の授業が面白く思ってもらえて、その先が読みたくて、ほかの授業中に読んでしまった、という嬉しいような、申し訳ないような生徒の感想。
自分が授業中に紹介した本を図書館に、あるいは私に借りに来たり、買って読んだり、生徒に影響できたときの喜び。

学校現場には学校現場の楽しさも大変さもある。
ただ、何にも縛られることなく、どの教科も教えられるメリットが塾の講師にはある。
どちらも楽しい。
けれど、今は、どういう方面からでも語ることのできる教科指導がありがたい。

そして、ある意味時間的にはある程度自由に、どんな勉強もさせてもらえることが喜びでもある。

公開:2022/05/15 最終更新:2022/05/15
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