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古文ー『大鏡』「貫之と躬恒」

ある高校の教材に平安時代の摂関政治、特に藤原道長の栄華を描いた歴史小説『大鏡』の中の醍醐天皇の時代の雰囲気がよく表れた場面が問題になっているものがあり、一緒に読んで解説をしました。
貫之は言わずと知れた、『土佐日記』の作者であり、『古今和歌集』の撰者でもあり、その仮名序で有名な歌人です。日本史の中でも延喜の治世(醍醐天皇の時代の政)は有名なのではありますが、なんとも天皇様のご様子がよく伝わってきます。
紀貫之も凡河内躬恒もどちらも有名過ぎるほどの歌人です。彼らは身分は低かったのですが、日本最初の勅撰和歌集(天皇様の命で編まれる歌集。日本人は和歌が大好きですから。)を編纂させるのに、有能な人材を積極的に登用する時代でした。本来は、天皇様が直接お声掛けをされるような身分ではない彼らに、天皇様は、時折その季節の素晴らしい風物に感じ入っては、彼らにその状況を読むようにと命じられます。
貫之の歌

こと夏はいかが鳴きけむほととぎすこの宵ばかりあやしきぞなし

これは時鳥がまだ忍び音(本格的に鳴く以前おひそめて鳴く声。)の時期に、時鳥が鳴くのを興じられた醍醐天皇がそれを貫之に詠ませられた歌です。
これだってなかなか目立ってめずらしいことのようです。

またある日は、宮中で管弦の遊びがあった折、躬恒を階段のところに呼び出して、
月を弓張と言うのはどういうことか。そのことを詠みなさい。
とおっしゃって、

照る月を弓張としも言ふことは山辺をさしていればなりけり

山辺を差して、入ればと射ればの掛詞になっています。きちんと和歌の修辞法を用いて当意即妙に詠んだ躬恒に天皇様は勅禄(天皇様からのご褒美)の大袿を与えます。その大袿をいただいて、肩に掛けたまま、また躬恒は天皇様賛辞の歌を歌ったのです。

それくらいの身分の者に褒美を与えていいわけではないけれど、それを非難されないのも、天皇様が重く思われ、躬恒が和歌の道で誰からも認められる優れた歌人であったからだ、と作者は語っています。

才能を認められ、天皇様から直接にお声を掛けていただいた歌人たちの気持ちはどれほどのものであったことでしょうか。
この場面を文章で読むたび、その喜びや、その場のなんともしあわせそうな雰囲気が伝わってくるような気がします。

いいですね!古文。

公開:2023/06/11 最終更新:2023/06/11
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