お知らせnews

子どもたちへの信頼ー本人たちに聞かせたら、きっと怒るだろうけれど。

ほかの人、あるいは生徒がそうなったら、私は可哀想だと思うだろうけれど、自分の子どもたちに来る試練については、胸を痛めこそすれ、可哀想だとは思わないようにしてきた。
というより、本人たちには申し訳ないのかもしれないが、きっと乗り越えるだろう・・・、と信頼していたのだと思う。
それなりに強さを。

結構壮絶ないじめにあったときも、上手に乗り越えた面もあるが、水面下では続いていただろうと気も、娘は気丈に乗り切ったし、息子も、あれこれの場面を、どこか自分を客観視して、使命を果たそう、というようなところがある。

あるとき、母に訊ねた。
なぜ、ほかの人なら、そうなっていることを気の毒にも思い、可哀想にも思うのに、子どもたちなら、なぜ、それを可哀想、という表現にならないのだろう・・・?と。
人並に胸張り裂けそうな思いを何度してきたことかわからない。
女性は子供に何かあったら、子宮が痛むのよね・・・、という言葉の意味も実感した経験がある。

それでも、どこか、凛!と乗り越えてくれると信じているのはなぜだろうか?

強さを信じてるから・・・。
あの二人、強いから。

と母は言ってくれる。
弱音を吐いたっていいし、それが人間である。
でも、弱音を吐きながらでも、絶対乗り越えるだろう・・・、と思っている私という母親は、いったいどうしてるんだろう?

昔、理不尽なことの一つや二つ、乗り越えて行かなければ、そこで親が手を出しては、本人たちの生きていく力が育たない、と思っていた節もある。
自分がずいぶん長い間、理不尽なことがたくさんあることを知らなかったからかもしれない。
新卒で勤めた学校で、先生は理不尽なことに弱いからね、と言われた。
それなりに、あちこちで経験もしていたのだろうけれど、気づかないのか、そうではないという解釈をしてしまうのか、とりあえず、人生の速い段階で、鍛えていただいておく方が後々のためになると、小さいころに思っていたような気がする。

胸を痛めたことがたくさんあったのは事実である。
それでも、どこかそのことが我が子を成長させてくれる、と信じていたのも事実である。

どの道親は先に死ぬのだし、子どもたちが悪いことをすれば親としての責任はあるけれど、子どもたちがしたいいことは、私をどうするわけでもない。ただ、喜ぶだけである。本人たちが頑張った、とただ喜ぶだけである。私の努力ではないから。

公開:2022/07/01 最終更新:2022/07/01
ページトップへ