高校期末考査対策 小倉百人一首についてーやっぱりそういうものなのか・・・、と気付いたこと。
午後一番の指導で、高校1年生の女子のクラスを指導していた。
期末考査対策であるし、古文だったので、まあ、腕が鳴ると言える。
それも大好きな和歌である。
正直、私は和歌については、そんなにうまく詠めるわけでもないのに、鑑賞、ということになるととんでもなくうるさい。
そして、いつも拝読して唸らされる現代においての、皆様がよくご存じの歌人と言えば、私にとっては皇太后美智子さまである。
皇族の中で好きだとか嫌いだとかそういう論は全く抜きにして、私は、美智子さまのお歌は素晴らしいと思っている。
先日、やはりそういう評価をされている論を読んで、ああ、やっぱりなあ・・・、と思った。
一方、今日指導していて、和歌の修辞法についてはそれなりに知っているつもりではいたのだけれど、今日、初めてその名を知った修辞法があり、その内容こそはわかっていたものの、ああ、これは心のない歌になるよなあ・・・、と思わされた。
文屋康秀の歌である。
雪降れば木ごと(毎)に花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきてをらまし
雪がたくさん降って枝枝に降り積もっている。咲いた梅の花と見分けて、どの枝を折ろうかしら・・・。
だいたい雪と花を一緒くたにしているところと、「離合」という、漢詩の修辞法を真似た、漢字を分解して詠みこむ(「木」と「毎」で、「梅」というような。)手法が私には無理があるように思われて、知的ではあっても感動を感じることができなくて、あまりいい作品と思えない。が六歌仙の中で、小野小町以外は、あまり上手ではない・・・、という説もあり、今日はその説に触れ、ああ、やっぱり!?と思わされたのである。
この作品は、先日中三クラスの入試問題演習でも取り扱った。
まあ、和歌の世界だしね・・・、という程度に思っていたけれど、百人一首の中には、私にはどうもこの作品はいい、と思えないものがある。
作風、とはいえ、あまりに観念過ぎたり、あまりに技巧ばかりが目立つというようなものは、私は好きではない。
テクニックを用いつつ、こころのある、なんとも読み手のこころにもひびくような作品が好きである。
誰か権威が選んだから、昔からいいと言われてきたから、ということで判断したくないし、そうはしないように思ってきた。
とはいえ、やはり、自分の感じ方、味わい方がおかしいのではないか?と思ってしまっているときもあった。
文学作品である。
それぞれに感じ方があっていいはずである。
私は、紀友則の歌が好きである。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
友則がなくなり、年長の従兄である貫之は共に新古今集の撰者をしており、相当にショックを受けたという。
あまりに有名な貫之の歌より、私は、この友則の歌に、作者の若々しさを感じ、純朴な少年のような心を感じる。
それだって私の感じ方ではあるけれど。